Days from US

主にニュースはNPRをソースに日々翻訳していきます。英語学習に関する自分の体験もここにシェアをしていきます。

死を凌駕する概念① 〜北京を訪れて以降、度々訪れる感覚

今年1月、僕が北京に行ったのは一部の人が知っているかと思う。

 

昨年の12月に日本に帰国し、毎晩友人との邂逅を愉しむ日々の合間には、中国に関して事前知識を入れておこうと雑多に読み物をしていたのだ。雑多という表現が相応しく、そもそもあまり「決めない」事をいつも「決めている」ので人より遅れを取ってしまう。要領はよく無いがその分偏見は無いように思える。自分が興味を持った事物について人に聞き、表情や口調で得られる破片を集めて何が見えるかを考える。少しずつそれを形にしていくのが僕の認知方法で、いつもそれは要領の良い人から言わせると非常に野暮らしい。いや、実際野暮なのだ。それを否定するものでは無い。だがその過程で得られた感覚は、少なくとも僕の時間軸の中で信頼に値する。

 

北京に着いて、まず考えたのは首都と言えど、この都市が冗長であるなという事だった。広い道路でも渋滞が慢性的で、建物は巨大だが点在している地域が圧倒的に多く東京とは違う。街特有の連続性を感じるのは、古くからの商店が風景の一部として残る地域だった。そこには物語を感じるが、雄大さのようなものは感じない。日本の子供達は想いの外中国史に触れている子が多い。僕はその量はともかく、三国志項羽と劉邦に関する漫画を読むことに多くの時間を費やした。また、高校時代は漢文を読むのが比較的好きな方だったが北京の街を観る限り、当初は多くの漢詩十八史略から垣間見える美学や雄大さのようなものを感じる事がなかった。それらをこの国の国民はどこに見出しているのだろうか。

 

僕が、気になった一枚の写真がある。日本に居る間の12月に四人組の一人、江青が裁判にかけられている写真を見た。僕が個人的にこの写真を見るに無念のようなものを感じない。国境を跨いでも時間に隔たりがあっても、人の表情からは何かが読み取れるものだ。この感覚は何なんだろうと思いながら北京紀行の後半はとうとう故宮天安門の見学を残すのみとなった。

 

まず、一つ何を言えるかというと、故宮天安門を一般開放していることに驚いた。故宮はそれ自体大きいが果たしてこれを一般開放して良いのかと思えるぐらい、痛んでいる箇所が散見された。その前提で、故宮で起こった事をガイドが解説してくれた。ここで、12月に仕入れた読み物の知識が少し活かされていたように思える。自分の視界にその時期に生きた人々が見えるような気がした。本当はもっとゆっくり妄想をしながら愉しむ事もできただろうが、そこはよく覚えてない。

 

最終日、天安門から広場を眺めたときに感じたことはここで様々な事が起こったという極めて当たり前の事だった。②に続く。