中国に於ける人民という言葉の重み
天安門広場を眺めた時に頭に思い浮かんだ事を無責任にメモしておく。
「人民」という概念は決して中国に住む人々だけを指さない。もちろん自国民の幸福と、世界市民のそれも望んでいる事。
鄧小平が国連で行った演説の骨子。
自分が出会った中国国民のお茶目さ。
遠目に見てきたここ数十年の中国。
全てを総合した時に、江沢民以前の国家主席は人民のコンセプトをもっと広く構えてたのでは無いかと何となく考えた。
問題の核心を明確にしておくと、中国人に対する僕の違和感、奇妙な感覚についてだ。
例えば、僕の熱が40度を超えたと言えば僕を病院に連れて行ったり、食事の面倒を見た中国人が居た。インフルエンザと分かっても傍から離れないで最後までやり切ってたのは驚きを禁じ得なかった。
とにかく僕が日本人であっても、知恵や食事、自分の時間をシェアし、助け合って僕らは仕事をしていた。
香港の事について中国人に取材をしていた時に多く人間が言及した事は
「英国時代であろうが、歴史を通じて今の香港を作ってきたのにあんなに破壊してしまって、建物もインフラも。だったらとっとと独立させて、全部自分達で作り直せば良いんだ。」
という点だ。え?民主主義と社会主義の対立じゃねーの?とか違和感を感じたのを覚えてる。破壊の一点に多くの中国人が言及してて、妙に温かみを覚えた事を記憶している。
最近で言えば、Facebookを晒されたと分かった時にかなり多くの人数で対応していた。結果的に僕は助かった。
今日、夜に荒凉とした背景の中に佇む天安門広場を見た時に感じた温かみ。
これらは富を公平に再分配する共産主義が産んだ特性なのでは?
つまり、人民という大事なコンセプトを内包する共産主義を実現する方法として中国は社会主義を採用していたのであって、問題はソ連が崩壊した事で大事な概念、多くの意味を持つ「人民」という言葉を支える共産主義を修正せざるを得ない。社会主義はどう物事を決めるかという、民主主義のカウンターパートになりこれはどうか?選挙が大きな意味を持てば確実に資本家、最も卑しい職業とされる商人が権力を持つ国になってしまう。だからソ連に代表する社会帝国主義を嫌うが、社会主義は死守する。この結果が現在の中国なのかと思った。
この仮説が正しいかどうか答えてくれる中国人に出逢う為には自分が中国語を知らなければならないだろう。だいぶ先の話だが知る事の価値があるトピックである事は間違い無いと考える。