Days from US

主にニュースはNPRをソースに日々翻訳していきます。英語学習に関する自分の体験もここにシェアをしていきます。

死を凌駕する概念② 〜北京を訪れて以降、度々訪れる感覚

天安門の城壁を上り、そこから広場を眺めてると小さな頃からテレビを通じて見た景色が蘇る。ここで色んな事が起こったがどだい、ここに居る人たちも「あの」人たちも僕とは違う人種だという事が嫌と言うほど分かる。というか、僕にこういうセンスは欠片も無いのだ。15分ぐらい黙って広場の景色を眺めていた気がする。正直、あまり積極的に思い出したいと思わないのは故宮やその他の巨大な公園に半日居た時も、夜に食事を楽しむ人々が集まる街を見ていてもそうだったのだが、僕は幼少期を過ごした場所で多くの中国人や韓国人に囲まれて育った事からこの景色や人々が醸し出す雰囲気を初めての体験ととても思えなかったのを認めたく無かった。この北京紀行の間僕は長い間、日本という土地に旅をしていたかのような感覚になった。が、しかし今立っている場所に愛着なんか持ちようが無いのだ。この分離されるような状況を受け入れ難く、思い出したいと思わないのは正に、幼少期に多くの外国人に囲まれて育った過去の事なのだろう。

 

日本に帰国し、すぐ翌日にアメリカに戻った。映画を一人で観るのが好きで映画館によく通っていた記憶がある。週末は図書館に出かけた。程なくコロナがニューヨークを席巻し、クオモ州知事が都市をロックダウンする。狼狽る人々に国籍は関係無い。経験の無い人は右往左往した挙句に最も高い買い物をするのは株式市場で「一番高い時に買い一番安い時に売ってしまう」人と酷似していて、そんな人達がそこらへんにいくらでも転がっていた。政治家は汚物のような言葉で互いに牽制し合い、それに群がるのはいつも暇人だ。日本では官僚や与党の政治家が恐らく死力を尽くしてこの混乱の対処にあたるものの、野党の見当外れな桜を見る会の追及に貴重なリソースを割かれ失望以外感じることは無かった。そんなSNSの空間から逃れようとするも、こちらは街はどこへ行っても誰も歩いておらず、対話する人間が居ないのであるからせめて本を読んだりするしか無い。結局は大きく逃れることは出来ない。

 

そんな折、こんな生活にも慣れてきた時分に、江青の写真の事をふと思い出してもう一度眺めてみた。やはりこれだけ大規模な裁判の中でも尚、江青は恐怖のようなものを感じているようにとても見えない。確か毛沢東の死後、彼を支えた政治家達は皆憂き目に遭ったと言われる。皆しかし恐怖や失望、絶望を感じているように見えない。何故江青らにそのような恐怖を示す表情が見つけられないのだろう。

その刹那、彼らは大きな歴史の一部だと自分を位置付ける事で、「死を凌駕する概念」を見出しているのでは無いかと言う論理が頭をよぎった。これなら自分にこれから起こることを憂う必要は無い、何故なら大きな歴史の一部なのであるから。で、あるからして歴史を雄大に捉える事の利点がここに存在するのだ。

この念を以ってもう一度逃れることを試みた時は成功。目的を大きく持って、ただそれをやることに何の躊躇いを感じる事が無くなった。